夢・希望を育む教育のデザイン (改 -JEDIー)

アクティブ・ラーニング-2- 本質?


◆「人口増」という時代の教育

明治以降、我が国の人口は右肩上がりで急速に増加しました。そして、社会は農業社会から工業社会へと変化し、戦後の日本は世界にも類をみないほどの復興・発展を成し遂げ、高度経済成長ともいえる物質的な豊かさを謳歌した日々が約100年続きました。

別な言い方をすれば、明治維新からの約100年は、先進諸国に追いつき追い越せという「キャッチアップの時代」ともいえます。

先進モデルが存在し、いかに速くそのモデルに追いつくかが重視された「キャッチアップの時代」では、教育に「習得」や「習熟」が求められました。如何に速く、如何に効率的に大量の労働者を生産現場に送り込むかが社会からの教育への要請となり、その実現のために教育には人材育成の効率化が求められ、その実現のために統制が強められました。

「キャッチアップの時代」は競争と比較の時代ともいえます。習得や習熟の量や速さを競い合う「競争と比較の社会」で、子供たちには競い向上することが求められ
ました。「いい学校・い
い大学・いい企業」という成功モデルが形成され、受験競争が激化した時代でもあります。(残念ながら、いまもその状況は続いていますし、格差の拡大が状況を一層深刻化させています。)

まさに「学校中心主義」(学校ファースト)といえる教育であり、「効率」や「統制」が重視された「大量少品種型教育」が求められていた時代でもありました。

日本大学の小笠原喜康教授は『学力問題のウソ』(PHP研究所、2008)の中で次のように述べています。

・・・『学力問題のウソ』(p.124)
「知識」を「学ぶ」とはどういうことなのか、そしてその結果として「わかる」とはどういうことなのか、という論議をしたい。
結論から述べると、それは、「知識」も「学ぶ」も「わかる」も、同じ現象を違ったコトバでのべているのではないか、ということである。近代教育の中で、私たちはこれらの概念を切り離し、「知識」という「モノ」を、「学ぶ」という方法のコンベアに載せて組み立てて「わかる」に至る、という工場モデルを当然視してきた。

・・・『学力問題のウソ』(p.125)
近代になるに従い、「知識」が、それが生みだされた場や状況、そして私たちから切り離されて、あたかもそれ自体としてあるかのように独立してしまったこと。そのことで、「モノ」的に扱われるようになり、孤体として自立的意味をもつかのように扱われるようになったこと。その結果、「知識」が学校の中だけに留まって校門を出なくなり、「論後読みの論語しらず」を生みだしている。

まさに「学校中心主義」の教育の姿を言い当てているのではないでしょうか。
しかし、「学校中心主義」の教育は、子供たちに深刻な負の影響を及ぼし始めています。