夢・希望を育む教育のデザイン (改 -JEDIー)

未来志向の教育デザイン-1-(はじめに①) 


明確なロードマップが示されないまま、これからのわが国の教育の方向性を示す答申が、平成26年12月20日に中央教育審議会から出されました。そして、理念は理解できるとしながらも、その実現の方策が不明確で実施までの期間がわずかなことから、当然のごとく、各方面から課題や疑問点が答申の直後に指摘され始めています。

私たちは、次々と打ち出される「教育改革」という施策に、いつまで翻弄され続けなければならないのでしょうか?
そんな思いを抱くのは、これまでの苦い経験があるからです。

今から14年前。
「横断的・総合的な学習の時間」が段階的に始まりました。
多くの学校や教師が、戸惑いながらも「教育課程を自ら創造できる」ことに魅力を感じ、自校の生徒や自校を取り巻く環境をうまく教育課程に組み込みながら、「魅力的な実践」が各地で生み出され始めていました。

その一方、「総合的な学習の時間」の指導内容や指導計画が学校現場に任されていたことや、教科書がないことに対する不安などが指摘されるようになっていました。
そして、その不安に呼応するように「学力低下論争」が巻き起こります。「横断的・総合的学習の時間」がめざしていた理念とは正反対の勢力が巻き返しを図り、「百ます計算」なと、即効的で訓練的な手法こそが「学力を向上させる」という「これまでの教育観」(古く時代遅れになりつつある学力観)が再び勢いを増し、「横断的・総合的な学習の時間」に代表された「これからの教育」は、国民はもとより教師にさえ十分には理解されずに敗北してしまいました。

それは、時の文部科学省がいわゆる「ゆとり教育」を打ち出しながら、その完全実施直前になって、急激な方針転換ともとれる「学びのすすめ」を出して教育現場に大きな混乱を巻き起こしたことに象徴されます。

千葉大学の天笠茂教授は、著書「学校経営の戦略と手法」(2006ぎょうせい)において次のように記述しています。

周到な戦略をもつことなく希望的な観測をもって事を起こし、その結果、手ひどいしっぺ返しを食らった、というのが先の大戦において経験したことではなかったか。にもかかわらず、その歴史的教訓を社会全体に、また、それぞれの分野における組織の隅々にまで浸透を図ることができなかったというのが、いまに至る戦後のわが国の姿ではないだろうか。

私たちは、いまの教育の状況、これからの教育について、この言葉の意味をもう一度かみしめながら「これからの教育」を、誰かが作ってくれるのではなく、自分で創り出していくという決意が必要なのではないでしょうか。

天笠教授は、次のようにも述べています。

これまでにも戦略なき実践の愚かさについてさまざまな指摘がなされてきた。また、実践のともなわない机上で練られる戦略の空虚さもよく話題にされてきた。しかし、われわれのものの見方や考え方、あるいは、組織の行動様式をみても、歴史は繰り返すというべきか、かつての姿を引きずっているといえよう。それだけ、戦略をもつとか、経営戦略をもって事柄に臨むということが、われわれにとって馴染みにくいものであるかもしれない。 (天笠茂著「学校経営の戦略と手法」より)

教育改革を完遂するチャンスは、何回もあるわけではありません。イソップ物語のように、幾度となく「オオカミが来たぞ」と繰り返しても、変革を実現することはできないのです。

「こんどこそ!」と思いつつも、・・・・・・?

今後、継続的に「未来志向の教育デザイン」を模索していきたいと考えています。)
(お読みいただければ幸いです。)