夢・希望を育む教育のデザイン (改 -JEDIー)

「教育」という概念の転換が必要な時代?


私たちは、「教育」という言葉がどんな意味を持っているのかをしっかりと認識した上で、「教育」という活動を展開しようとしているのでしょうか?

広辞苑で「教育」という言葉を調べると、次のように説明されています。

教育 : 教え育てること。人を教えて知能をつけること。人間に他から意図を持って働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動。

広辞苑に異を唱えることなど思いもよらないことですが、時代の変化を踏まえたとき、「この回答をそのまま受け入れることを是とするのか」と問われると・・・・?

インターネットで「教育」の意味を調べると、「Yahoo知恵袋」には、次のような回答が寄せられています。その一部を紹介すると・・・・、

松嶋鈞氏(『現代教育要論』)によれば、語源からいうならば、educatioというラテン語に遡る。この語には動詞として、大きくするeducareと引き出すeducereの二つを派生させている。
この語は、もともと、動植物の生命を引き出し、それを飼育・栽培するということを意味していたとされる。次第に、子どもを養い育てることを意味するようになった。つまり、親が子どもの成長が引き出されることを願い、育てることを意味するようになったとされる。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12111041957

教育の意味や価値が揺らぎ、再定義や価値の位置づけが必要になり、子ども達の異変が特別支援教育の重要性をますます高める中で、広辞苑の記述とyahoo知恵袋の回答の違いを、自分の教育観と照らし合わせながら、再定義する必要があるのではないかという思いを抱いている自分に気づきます。

JEDI-教育の未来-「一粒の種の神秘」で述べたように、教育という語には、子どもを含めたすべての生物が、誕生の過程で内在しているさまざまな能力を引き出すために、生れもっている状態を大切にし、その状態に最大限の配慮を加え、その能力が発現するのを待つことが重要であるとの意味があります。
それと同時に、予め持っているさまざまな能力が発現できるように、その子供を取り巻く外部的環境を通して働きかけることがなければ、教育という営みは成立しないのは当然のことです。

しかし、残念ながら、私たちは「広辞苑」が説明している教育を尊重し、「教える」ことの技術に執着しすぎてしまい、子ども達には自らを発達・成長させる力が内在しているという、成長・発達の基本ともいえる事柄を忘れ去った教育を展開してはいなかったでしょうか。

「啐啄(ソッタク)」という言葉をご存じですか。

その意味を、広辞苑では次のように説明しています。

「啐」はひなが卵の殻を破って出ようとして鳴く声のことで、「啄」は母鳥が殻をつつき割る音という意味です。また禅宗では、「導く師家(しけ)と修行者との呼吸がぴたりと合うこと。

「啐啄(ソッタク)」という言葉には、「ひな」や「修行者」が育つために必要な内的で自然な成長と、「母鳥」や「師家」という外部からの働きかけという二つの働きかけによる相互的で複合的な営みが、教育であるという意味が込められています。

時代の転換点における「教育」を考えるとき、「啐啄(ソッタク)」の意味を改めて捉え直し、新たな教育の創造に取り組まなければならないと思います。
それは「教育=次代を担う人(人財)を育てる」という方程式が「正」であることを証明する作業なのではないかと考えています。