日本教育デザイン学会 ーJEDIー

新学習指導要領を読み解く(3)


◯「新学習指導要領を読み解く(2)では、答申の「はじめに」からキーワードを抜き出して答申のねらいを考えました。その中でも、私は次のキーワードが重要だと思っています。

 新しい時代にふさわしい学校教育の在り方を求めていく必要がある
 教育課程を通じて初等中等教育が果たすべき役割を示す
子供たちの成長を支える教育の在り方も、新たな事態に直面している

◯これからは、「新しい時代にふさわしい学校教育の在り方を求めていく」ことが不可欠であり、「子供たちの成長を支える教育の在り方も、新たな時代に直面している」と答申は述べています。別な言い方をすれば、時代の変化に対応して「教育の再定義」が必要な時代が訪れているともいえます。

◯そこで、今回は「そもそも教育とは何か?」ということについて考えてみたいと思います。

◯約2年半前の2015年(平成27年)1月14日に、日本教育デザイン学会のホームページに「『教育』という概念の転換が必要な時代?」と題する投稿を掲載しました。今回の学習指導要領の改訂を理解する上で、参考になると思いましたので、以下に再掲します。
(なお、本稿では新学習指導要領を踏まえ、表現の一部を変更しました。)

(再掲)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

私たちは、「教育」という言葉がどんな意味を持っているのかをしっかりと認識した上で、「教育」という活動を展開しようとしているのでしょうか?

広辞苑で「教育」という言葉を調べると、次のように説明されています。

教育 : 教え育てること。人を教えて知能をつけること。人間に他から意図を持って働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動。

広辞苑に異を唱えることなど思いもよらないことですが、時代の変化を踏まえたとき、「この回答をそのまま受け入れることを是とするのか」と問われると・・・・?

一方、インターネットで「教育」の意味を調べると、「Yahoo知恵袋」には、次のような回答が寄せられています。その一部を紹介すると・・・・、

松嶋鈞氏(『現代教育要論』)によれば、語源からいうならば、educatioというラテン語に遡る。この語には動詞として、大きくするeducareと引き出すeducereの二つを派生させている。
この語は、もともと、動植物の生命を引き出し、それを飼育・栽培するということを意味していたとされる。次第に、子どもを養い育てることを意味するようになった。つまり、親が子どもの成長が引き出されることを願い、育てることを意味するようになったとされる。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12111041957

教育の意味や価値が揺らぎ、「教育」の概念や価値、役割の再定義が必要になり、子ども達の異変が特別支援教育の重要性をますます高める中で、自分の教育観と照らし合わせながら、「広辞苑の記述とyahoo知恵袋の回答の違いを、自分の言葉で吟味・検討する必要があるのではないか」という思いを抱いている自分に気づきます。

JEDI-教育の未来-「一粒の種の神秘-1-」等で述べたように、教育という語には、子どもを含めたすべての生物が、誕生の過程で内在しているさまざまな能力を引き出すために、生れもっている状態を大切にし、その状態に最大限の配慮を加え、その能力が発現するのを待つことが重要であるとの意味があります。
それと同時に、予め持っているさまざまな能力が発現できるように、その子供を取り巻く外部的環境を通して働きかけることがなければ、教育という営みは成立しないのは当然のことです。

児童相談所への虐待通告件数が過去最高になったとの報道が毎年繰り返されているように、子供たちの育ちや教育という営みは危機に瀕しているように思います。インクルーシブ教育の重要性がますます高まる中で、平成19年度からすべての学校で特別支援教育に取り組むことが求められるようになってから10年が過ぎましたが、「その道はまだ半ば」と言った状況です。もう一度、可能性の塊である子供をありのままにとらえ、予め持っているさまざまな能力が発現できるように、子供を教育の中心にしっかりと据え、特別支援教育の視点に立って「これからの教育をデザインする」必要があります。

しかし、残念ながら、私たちは「広辞苑」が説明している教育教え育てること。人を教えて知能をつけること。人間に他から意図を持って働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動)を当然としてきたために、「教える」ことの技術の錬磨・修練にばかり執着しすぎてしまい、子ども達には自らを発達・成長させる力が内在しているという、成長・発達の基本ともいえる事柄を忘れ去った教育を展開してはいなかったでしょうか。

「啐啄(ソッタク)」という言葉をご存じですか。

その意味を、広辞苑では次のように説明しています。

「啐」はひなが卵の殻を破って出ようとして鳴く声のことで、「啄」は母鳥が殻をつつき割る音という意味です。また禅宗では、「導く師家(しけ)と修行者との呼吸がぴたりと合うこと。

「啐啄(ソッタク)」という言葉には、「ひな」や「修行者」が育つために必要な内的で自然な成長と、「母鳥」や「師家」という外部からの働きかけという二つの働きかけによる相互的で複合的な営みが、教育であるという意味が込められています。

時代の転換点における「教育」を考えるとき、「啐啄(ソッタク)」の意味を改めて捉え直し、新たな教育の創造に取り組まなければならないと思います。
それは「教育=次代を担う人(人財)を育てる」という方程式が「正」であることを証明する作業なのではないかと考えています。

(再掲)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

◯私は、「教育とは、環境を整え、必要な知識や情報を与え、成長・発達に寄り添いながら、子供たちが内に秘めて持っている力の存在を子供たち自身に気づかせ、うまく引き出す営み」ではないかと考えています。

◯下図は、中教審から出されている「学習指導要領改訂の方向性」と題された資料です。
この資料については、別の稿で詳しく触れたいと思いますが、「新しい時代に必要となる資質・能力」として、
 ◆学びを人生や社会に生かそうとする学びに向かう力・人間性等の涵養
 ◆未知の状況にも対応できる思考力・判断力・表現力等の育成
 ◆生きて働く知識・技能の習得
を掲げています。新学習指導要領では、この三つの観点から教育課程を編成することを求めています。

◯さらに、三つの資質・能力を示す上記の文章の最後が、「習得」「育成」「涵養」とそれぞれ異なる言葉で締めくくられていることにも注目する必要があります。つまり、知識・技能はその場その場でしっかりと「習得」することを目指すが、思考力・判断力・表現力等を身に付けるには少し時間がかかるので「育成」とし、学びに向かう力・人間性等は幼児期から成人に至る長い時間の中で「涵養」していこうという意図が読み取れます。

◯そして、この三つの資質・能力を子供たちに身に付けさせるために重要になるのが「社会に開かれた教育課程」であり、その実現を目指して教育活動を組み立て修正していく役割を「カリキュラム・マネジメント」に担わせようとしているのです。

◯「何を学ぶか」や、「どう学ぶか」も重要ですが、それらの教育活動を通じて「子供たちは何ができるようになったのか」が、子供たちの教育を生業としている学校や教師に問われているのです。

◯私たち教師は、「子供たちに何ができるようになって欲しいのか」を理由を込めて説明し、子供たちと共に「どのようにしたらそれができるようになるのか」を考え、そのために「何を学ぶか」を考えることがこれからは重要になるのではないでしょうか。